シルヴィア・ラガッツィ

八月の数日を伊豆のホテルで過ごした。
毎朝、食卓でレモンティーを飲む。本を読んでいるうちに眠くなり、涼しい日陰にある長椅子で少しまどろんだりする。
あの日も同じように始まった。同じ朝ごはんのレモンティーも、同じ長椅子。
今日の本は退屈な話だな、と思いながらホテルのベランダからの景色を見た。
少年が一人、丘の上を走っている。遠目だからよくはわからないけれど、十歳くらいだ
ろうか。ジョギングではない。あっちに走り、 こっちに走り、なにかを追いかけているよ
うに見える。逃げているようにも見える。姿を見せたり、隠れたりしているように少年は遊んでいた。
私は本を投げ出すところで、ちょうど少年が息を切らして丘のふもとの植えこみから出て
来た。
「こんにちは」
「こんにちは」
少年は驚いたように見あける。目鼻立ちのはっきりとした、いかにもやんちゃ坊主らしい
面ざしだ。
「なにをしてんの?」
「うん? 遊んでんの」
それはわかっている。
「友だちは?」
「いないよ」
「一人?」
「そう」
「だれかと追っかけっこしているのかと思った」
「うん。ジロウと遊んでんの」
「ジロウ?」
「犬だよ。まっ白い犬」
それは少し前見たときにも考えたことだった。なにかと尋ねられたならば、少年の様子は
犬と一緒に遊んでいる姿に一番よく似ていた。だが、肝心な犬がどこにも見えない。

「犬なんかいないじゃないか、どこにも」
「いるよ」
「どこに?」
「むこうのほうへ駈けて行っちゃったんだ」

と少年は幾層にも続いている丘のひだを指して、口笛を吹いた。私は白い犬が現われるのを期待したが、しばらく待ち受けても来なかった。
「どうした犬は?」
「本当はネ」
少年はちょっとはにかむような表情を作った。
「うん?」
「死んじゃったんだ、ジロウ。一ヵ月くらい前かな」
「かわいそうになあ」
「でも、ときどき口笛を吹いたら走って来るんだよ」
声の調子に驚いた。驚きというよりかすかな恐怖かもしれない。本気で言っているのでは
あるまいか、そんな気配がある。少年のまなざしにも口調にも……。
「いくつ、君?」
「九歳」
「そうか」
九歳ならば、空想と現実が混然としていることも、おおいにありうる。死んだ犬がまのあたりに見えて来ることもあるだろう。
「本当だよ」
こっちの疑いをうち消すように強い調子で言う。
「うん、うん」
「白くて、ぬいぐるみみたい……見て、見て、今に走って来る!あのへんから」
少年の指先は木陰に隠れている姿を指した。
すばしこく駆けている小さい動物に違いなかったけど、ぜんぜん真っ白いじゃなかった。
あの姿はどんどん近づいて、泥まみれの毛はよく見えるようになった。その走り方も、何か不思議なところがあった。足を引きずっているようだ。
心の奥で不安が深まっていた。あのとき、風が吹いてきた。
いきなり、強い臭いが感じた。まるで、腐朽の臭いだった。同時、犬は私たちに追いついた。
「ジロウ!」
少年はすごく嬉しい顔をして、犬の汚れている毛をなでた。
私は日陰でも汗をかき始めた。いずれにしてもあの犬、普通のじゃない、私が思った。
少年と犬は草むらの上で遊んでいた。少年は犬を触って汚れているになることもその臭いも気にしていないみたいだ。
しばらくして、私はすっとホテルの中に戻った。最後に一瞥して、毛の下に剝がれていく

皮を見えた気がした。ある瞬間、犬の目は赤く光っていた。
あの夜、何回も「気のせいだったろう」と繰り返しても、ぜんぜん眠れなかった。部屋の外から、吠えるというふうに恐ろしい音が聞こえていた。
次の日、伊豆から逃げた。数年後、あの事件の不安を忘れようにできなかった私は「伊豆
の犬」という伝説を聞いて、あの日の見たことをやっとわかった。伊豆のあるところをさまよう赤い目をしている犬の話だった。