言語教育の役割はなんですか。三週間前から、つまりJaleaで文法チームのメンバーとして働くようになってから、こんな質問は何回も頭に浮かんできました。5年前の私に聞いてみたら、「言語教育の役割は言語を教えるに過ぎないでしょう」と答えていただろうと思います。けれども、今は考え方がちょっと変わりました。

言語教育活動はカップに清い水を注ぐようなシンプルな活動ではないと思うようになったのです。「言語」ということは透き通った水のように単純な概念ではなく、必然的に社会的不平等と密接な関係があります。それで、無意識的に日常生活の中でも使われている言語のいわゆる象徴暴力に気をつける必要があると思います。この理由で、学んでいる方に知識を注ぐこと、つまりただの情報の授受は不十分です。特に言語を教える時に。

社会は言語に影響を及ぼす言うまでもありませんが、サピア・ウォーフの仮説が示したようにその逆も確かです。言葉がら思考、思考から行動。教えている言語がステレオタイプや偏見でいっぱいだったら(一言で言えば、エクスルーシブだったら)どのような行動になってしまうのでしょうか。

それで言語の教え方を扱うと、従来通りに教えるのか、もっと包括的なアプローチを取るのかという二つの選択があると思います。言い換えれば、「言語に反映されている社会的不平等に気にしないで、現状を維持する」と「言語の象徴暴力を理解してみて、現状を改善してみる」という二つの選択です。

このポストを書いている私は二つ目の方がいいと思います。従来のステレオタイプを強調しないように、もっとインクルーシブな社会の基礎を築けるように、そしてみんな共生できる場を与えるように言語教育は第一ステップになると思います。

将来の投稿でもこのトピックにもっと触れていきたいと思いますので今日はこれで以上です。ここまで読んでいただいてありがとうございます。