「芸術は爆発だ!!」という、かの有名な日本人芸術家岡本太郎の言葉をもじったようなタイトルで恐縮だが、本当にそう思うのでこのまま筆を進めよう。
まず、筆者の所属するグループでは言語教育の中でも特に外国語教育について取り上げて議論をしているというのを明確にしておく。そのうえでこの先の文章を読み進めていただきたい。
さて、大学に入る前のことだが、筆者をはじめ私たちのグループメンバーおよび自由会話の授業参加者には「実用的かつ面白い」と感じる外国語の授業を受けてこなかったという人が多くいた。コミュニケーションツールとして外国語を学習したという認識にすら及んでいなかったとも言えるだろう。ただ与えられた課題をこなすような感覚であり、自分の意見や気持ちを表現するというものではなかった。グループにはイタリア人と日本人がいるものの、そのどちらもが最初の外国語として触れる英語の授業の中ではあまり「リアルな会話」を意識した学習法は行われていなかったというのである。
-ではなぜ我々は外国語を勉強するのか?
それは話す言葉が違う人々とコミュニケーションをとるためではないだろうか、と筆者は考える。
もちろん学校で学習するような長文読解や文法の学習、語彙力の強化などを経てコミュニケーションという段階に到達するので、決して学校での学習が無駄であると言っているのではない。何かしらの文献を外国語で読むことも、筆者の意見を読み手が受け取ると考えればコミュニケーションの一部である。
だが、このような従来の学習方法ではこの「コミュニケーションツール」という段階にまでたどり着けないまま外国語に興味を抱けず、さらには母国語さえできていればさほど生活には困らないということもあって外国語が身につかないまま終わってしまう人も多い。
ここで、グループ内でも取り上げられた日本での英語教育を例に挙げる。近年、学習指導要領が改定され、以前のような一方通行の授業内容が見直されることとなった。それは「自分のことを外国語で表現する」というのを重視するというものだ。小学校から高校にかけて、段階的にコミュニケーションツールとしての英語を強化することを目的にしている。
グループ内で参考にした文献中で
コミュニカティブ・アプローチは言語形式だけではなく、言語の意味や機能にも注目し、伝達過程を重視した上で実際のコミュニケーションの場面で言語が使用できるようになることを目標とする。
という一文あったが、この改定された英語の授業方法はこのコミュニカティブ・アプローチに該当するといえるだろう。
もし仮に筆者がこの新しい方式の英語の授業を受けていたら、私の英語に対する意識はどう変わっていただろうか。
想像するに、より早く外国語を用いて外国の人とコミュニケーションをとることの楽しさ、そして興味深さに気づけていたのではないかと思う。
ただひたすらにテストの点数を取るためだけの学習法では「言語学習」という、その言葉通りの領域を飛び越えることはできなかった。その先の、外国語を用いることによって知り得る数多くのことに出会うのは難しかったのではないか。
実際にイタリアでの留学を経験し、多少の実践的なイタリア語や英語を習得した今でこそ、外国語を用いて様々な知識を得ることができた。それはアカデミックな内容だけではなく、会話をすることで得られるその人個人の考え方、さらにはその国の人の考え方の傾向まで多種多様であり、多くの「気づき」に出会うことが可能だ。
例えば、学校で習ったことを用いて訳した直訳文だけでは、なんとなくピンとこない文章も会話を重ねる中でなんとなく自分の腑に落ちる意訳方法を手に入れることもできる。
または、同じことを指す言葉であっても文化的背景から全く違う表現をすることにだって気づけるかもしれない。
このように外国語を学習することで、自分が知っていた世界のさらにその先へ進むことができる。
さらには自分が進んだその先の世界で、新たに出会った人の世界をも広げることができるかもしれない。
言語は話されているその国の背景を表した文化そのものであり、そして異文化理解をも促す重要な存在である。
こうした意味合いもあることを意識しながら言語教育をとらえていきたいと考え、冒頭の「言語は文化だ!!」という言葉にその思いを集約したつもりだが、少々集約しすぎただろうか?
果たしてこの雑多な文章で、読者の方々に伝えきれたのか…と筆者は今ものすごく不安でいっぱいである。
とにもかくにも、もしこの長い文章を最後まで読んでいただけたのであれば大変ありがたい。
20 2月 2021 at 23:07
わかばさん、とても面白い投稿を書いてくれてありがとうございます!イタリアに経験した留学の間に学んだこともこの記事に入っていてうれしいです。わかばさんが書いた記事は「言語は文化だ」の意味をもっと真剣に考えさせました。アカデミックな言語学習はテキストや試験が必要になるかもしれませんが、実際に外国語を学ぶために確かにそれは十分ではないです。何が足りないです。それは何でしょうか?この記事に書いてあるコミュニカティブ・アプローチだと思います。点数や試験より、最も大事なのは実際に相手とコミュニケーションして自分の考えたかを表現することですね。私もそう思います。外国語を学ぶのはただ文法ではなくて人々とコミュニケーションする手段になります。それは私も時々忘れてしまいます。(笑) もし外国語の授業にはもっとインターアクションを含めるアクティビティまたは記事に書いてある「リアルな会話」が一番大事な部分だったら、言語学習はもっと効果的で楽しいプロセスになると思います。
23 2月 2021 at 14:23
早速コメントしていただきありがとうございます!
文法や単語を学ぶだけではせっかく学んだことを活用する場がなく、もったいないと思います。コミュニケーションの中でこれらの学習したことを生かす、ということ自体が明確に分かっているだけでも学習意欲に差が出るかもしれませんね。意欲が出れば、Saraさんのおっしゃるとおりもっと効果的で楽しいものになると思います。
20 2月 2021 at 23:53
大変興味深く読ませていただきました。同じテーマを扱っている我々のグループ内でも、言語教育や言語学習の意義について色々議論してきました。従来の学校での言語教育に関しては、我々も同じ不満があり、何か物足りないような気がします。ペアになって、ロールプレーとかで会話の練習をしても、それは自然なやり取りのような感じはあまりしません。やはり、直接その言語が話されている「その場」に行かない限り、言語の生きている部分に十分に触れられないと、私も留学経験を通して実感しました。言語は石のようなものでなく、生き物と同様に生まれて、成長して、たまに亡くなったりもします。なので、その言語をどうやって上手く使えるようになるのかというよりも、自分が話す言語や言葉を「生かせる」にはどうすればいいのかという問いに焦点を当てた方がいいと思います。それはおそらく、「自分の言葉」を見つけるということになるでしょう。言語学習の最初の段階では話が通じるように努力しますが、その言語の知識が深まっていくにつれ、できるだけ「自分」が通じるように努力しなければ、先ほど述べた「意義」が発見できないだろうと思います。
23 2月 2021 at 14:29
早くもコメントをいただけて大変うれしく思っています。
Valentinaさんのいう「自分の言葉を見つける」というのは、私も確かにそう思います。言語学習を通して、母語で自分が表現できることと同じようなニュアンスで相手に自分を伝えられるのは素晴らしいことだと思います。言葉のニュアンスは微妙であいまいで、外国語学習者からすればとても難しいものですが、それと同時に言語を学ぶ奥深さでもあります、たくさんの表現法を自分なりに習得して使いこなせるようになれば、コミュニケーションもより有意義なものになるでしょう。
21 2月 2021 at 10:54
わかばさん、とても面白い記事ですね!私は書いたことに完全に同意します。私の日本語はあまり上手ではありませんが、このトピックが私にとっていかに重要であるかを人々に理解してもらいたいと思っています。私たち語学学生にとって、反省することは重要なトピックだと思います。何年にもわたって、私は言語を教え、学ぶことの難しさに気づきました。テキストや音声を理解できることと、自分を表現できることには大きな違いがあります。どちらも非常に重要であり、聞くことと話すことを学ぶ必要があると私は確信しています。次に、テキストと書面による制作の理解に進むことができます。少なくとも、何年にもわたって外国語を勉強した後、私はそう思います。
23 2月 2021 at 14:38
Camillaさん、コメントしていただいてありがとうございます。
言語を教えること、学ぶことの難しさは私も小中高大学を通して学ぶ中でやっと少し気づけたように感じます。本音を言えば、もっと早くから気付いていればより能動的に言語学習に取り組めたのかな…と思ったりもするのですが…。ずっと学校で読み書きの練習ばかりしていると、話すことの重要性に気づけなかったり、話すことの難しさから逃げてしまったりします。このようなことがこれからの将来はなくなっていけばいいな、と思います。Camillaさんのように、こうした言語教育の意味を理解している人たちこそが将来の言語教育を変えていってくれるのかもしれませんね。
21 2月 2021 at 11:41
わかばさん、興味深いポストを書いてくれてありがとうございます!イタリアにも日本にも言語教育はとても大きい問題ですようね。イタリアには、中学や高校の言語の先生はあまり資格ではありません。今の状況に生徒たちが先生の教育法だけに頼りになる場合には、言語をかなりのレベルを学ぶのは不可能と思います。「コミュニカティブ・アプローチ」という教育法はとても面白いと思います!私もわかばさと同じく外国に留学経験のおかげで新たな言語を学ぶためのコミュニケーションの大事さに前より気づきました。そして、英語の場合には、英語圏の国に留学しなかったが、毎日ネットで(特にツイッターで)英語で会話します。だから、この場合にも、私の言語力はコミュニケーションのおかげで急激に上がりました。
23 2月 2021 at 14:46
Elisaさん、コメントくださってありがとうございます!
私も留学を通して、コミュニケーションの大切さに気付きました。間違ってでも話そうとする姿勢がとても大事ですよね。黙ったままでは何も習得できずに終わってしまいます。机に向かって勉強することは大切ですが、話すという作業には慣れも必要なので読み書きの練習だけで話せるようにはならないというのが留学をしたことで身にしみてわかりました。
英語の学習にも積極的に取り組んでいらっしゃるようで素晴らしいと思います。Elisaさんの場合、日本に留学したことで語学学習への意欲を向上させたとともに、外国語学習をする際に伴う「間違うことへの恐れ」も同時に克服できたのではないかと思います。これからもその持ち前の向上心とガッツで英語も日本語も楽しく身に着けていってください。
21 2月 2021 at 12:06
わかばさん、とても大切なテーマについて書いてくれてありがとうございます。友達と一緒に習ったことをよく話して、一般的に外国語教育は具体的ではなくて、観念的なのです。どうしてでしょうか。わかばさん書いた通り、コミュニケーションが一番大事なものです。私たちは他の国の人に自分の意見や感じを伝えるために、言語を学びます。でも、教える方法は同時に裏腹です。文化を勉強しても、言語と違うこともあります。文化はとても大切だと思います。その国の習慣や考え方を分かって、よくコミュニケーションするようになるからです。目的を忘れるしまうようです。例えば、この投稿に知らない言葉や文法がたくさんありますが、この表現はとても便利だと思います。わかばさんのポストを読むだけで日本語の知らないことがいくつあるか分かります。その上、ヴァレンティナさんの意見に賛成します。本当に言語を学ぶためにその国へ行かなければなりません。私はイギリスへ行った時、英語ができるようになりました。その旅行の前に全然できませんでした。日本語は同じだと思います。日本へさえ行けば、日本語が上手になるでしょう。
23 2月 2021 at 14:56
Agneseさん、コメントをくださってありがとうございます。
イギリスに行って英語ができるようになったんですね!私は日本の学校で小学校から大学にかけて英語を勉強したのにも関わらず、全然話すことができませんでした。それはおそらく、全く英語で会話する機会がなかったからだと思います。英語を話す国にいなくとも、自分自身の生活環境を意識して「英語漬け」にすることで英語を習得できる人もいるかもしれませんが、普通なかなかそこまではできません。そうなるとやはり、強制的に「英語漬け」になる環境、つまり現地に留学することが一番手っ取り早いというか、効率的なのだと思います。ですが、現地に留学しても同じ国の出身者とかたまって行動していたり、英語を話す人との交流がなければ言語を習得することはできないですよね。Agneseさんはイギリスで、最初は英語が得意ではなかったにしろ、たくさん英語でコミュニケーションをとる努力をしたからこそ今の英語力が身についたのだと思います。
日本語も同じように、これからもっと日本語でのコミュニケーションを重ねて上達させていってください!
21 2月 2021 at 12:09
わかばさんのポストはとても意味深ですね。お疲れ様でした!
言語の学ぶことために会話が大切ですけど、学校には大学にも使ってロールプレイが学生にぜんぜん起こって自体をはなせます。それで、 ネイティブスピーカー と政権話や只トピックを話すこと最上な学習方法はだと思います。
23 2月 2021 at 15:02
Emmaさん、コメントありがとうございます。
大学でも授業で日本語のロールプレイをしているんですね。ロールプレイは、例文を覚えて応用するためには効果的だと思います。自分が表現したいことを自分なりに考えて、応用させればネイティブスピーカーとの会話で使えますし、もしうまく言えなかったとしてもおそらくその会話を通してさらに会話力を向上させることができるでしょう。ネイティブスピーカーの人に会話を通して、新しい表現方法や単語を教えてもらうこともできるでしょうし、可能性はたくさんあります。コロナが収束すれば、学んだことを生かすチャンスもさらに増えると思うので授業で習ったことを生かして、実際の日本語での会話に備えてくださいね!
21 2月 2021 at 15:31
ワカバさん、ポストを書いてありがとうございます。外国語の学生として、とても面白かったんです。また、私は何のために日本語を勉強しているかと考えさせました。仕事のためも、学習のためも、私にとって結構大切な追求している目標なのですが、実はコミュニケーションの手段を学びたいと思います。これを思い出させてくれてありがとうございます 。
23 2月 2021 at 15:11
Annaさん、コメントをいただけてうれしいです。ありがとうございます。
目標があって日本語を勉強されているとのことで、素晴らしいと思います。
確かに「仕事で日本語を使うから」というのは日本語学習の明確な目標ですね。でも、それは掘り下げると「仕事をする際の、コミュニケーションツールとして日本語を使う」ということでもあります。本当に”業務内容だけ”を日本語で伝えればいいという仕事はありませんし、日常のたわいもない会話から仕事に結びつく場合もあるかもしれません。ビジネス用語や日常会話レベルの日本語まで、様々な日本語を学習するのは大変です。しかし、どんなシーンでもコミュニケーションが円滑に進むように日本語のスキルが上がればAnnaさんの将来はより明るいものになると思います。
22 2月 2021 at 14:22
わかばさんの記事が大好きです!実際は、私は他の国の文化を知りたいし理解したいから、外国語を勉強し始めました。この理由で、私にとってわばさんの記事はとても面白いだと思います。確かに、国の言語は国の文化に対応していますから、言語を勉強していたら、文化を知ります。
23 2月 2021 at 15:15
Beatriceさん、コメントくださってありがとうございます。
Beatriceさんは確か、韓国の儒教などそういったものにも興味があるんですよね!
韓国は儒教文化が根強いので、やはり日本よりも敬語を使う相手が多かったりいろいろ表現に幅があるようですね。おっしゃるように、言語は本当に国の文化に対応していると思います。これからも言語教育というグループ共通のテーマを通して、一緒に文化を学んでいけるといいですね!
22 2月 2021 at 16:24
青柳さん、
興味深いポスト、ありがとうございました。また、JFが支援してくださっている「カフォスカリ・バーチャル留学」と自由会話へのご参加、心から感謝しています。
ポストのタイトルに引っかかって、一気で読ませていただきました:)
「言語は話されているその国の背景を表した文化そのものであり、そして異文化理解をも促す重要な存在である。こうした意味合いもあることを意識しながら言語教育をとらえていきたいと考え、冒頭の「言語は文化だ!!」という言葉にその思いを集約したつもりだが、少々集約しすぎただろうか?果たしてこの雑多な文章で、読者の方々に伝えきれたのか…と筆者は今ものすごく不安でいっぱいである。」とのことでしたので、これに続けて、一言をコメントさせていただきます。
確かに、言語はその国の文化だと書いてしまうと、現在の Postーcommunicative アプローチ(佐藤&熊谷、2017、http://literacies.9640.jp/dat/litera20-1.pdf)と、日本文化論を越えよう(久保田竜子、2013、https://www.aatj.org/resources/publications/book/Culture_Kubota.pdf)としているクリティカル・ペダゴジーのempowermentへの努力が見えなくなってしまう恐れがでてきそうな気がします。
(このNoLBrick方針もその中の一つの視野ですが)。
例えば、久保田竜子は次のように書いています。
「1990 年代の後半からは、人やモノの交流の増加に伴う多文化主義・多元主義の言説や多文化共生の行政施策などに比例して、体系化・固定化された文化に関する知識を教え込むより、「学習者自身に自身の観点からそれぞれの『日本事情』を発見させ、捉えさせる手助けをする」という学習者中心主義の アプローチが注目され 始 め た(細川 2000, p.109)。このアプローチの模索の中で必然的に生じたのは、文化に対する認識の変革であった。つまり、従来の固定的・単一的見解を超えて、文化を流動的・多元的にとらえる認識が明確に提示され(川上 1999, 河野 2000)、杉本・マオア(1982)などが批判の矛先を向けた日本人論の本質主義が、日本語教育においてもようやく問題意識化されるようになったのである。」
また、つづけて、「これはおそらく、外国語学習には「同化」というアイデンティティ喪失の危険性が存在しないと見られるからであろう。しかし、これがかえって、日本語=日本人=日本文化という固定化された文化観を助長してしまうのではないだろうか。」などなどと、できるだけ「言語は文化だ!」という表現を以下の理由で勘違いしやすいので注意をしたいと思っております。
「教育の手段として文化を理解しやすく噛み砕いて学ぶことは、文化の複雑な諸相を「正しい知識」とし
て単純化及び固定化してしまう上、文化の語りの奥に潜む政治性やイデオロギー性に目を背けることにつながりやすい。それによって、支配的イデオロギーを鵜呑みにし、知らず知らずの間にステレオタイプ的理解に陥ってしまうのである。」(久保田2013:10)
日本語学習者として、留学はその「国の文化」より、「個の文化」(社会・文化の中に生きる個々の認識のこと)(細川,1999,2002,2005,等)の視点の方が今日までささえてくれた重要な概念です。(参考:三代2013、https://core.ac.uk/download/pdf/144456917.pdf)
長くなりましたが、言語を知っているから、文化も理解している、他者も理解できるという「人工的な」思考連鎖が、そもそも「文化」って何?という疑問についての再考察の必要性が感じさせてくださいました。
28 2月 2021 at 16:24
Mariotti先生、コメントいただきありがとうございました。返信が遅くなってしまいました。すみません。
タイトルは人の心を惹きつけるものでなくては…という思いもありこのようなタイトルにしてみた節もあります。
ですが、確かに言語は「その国の文化そのものだ」と、断定してしまうような言い方は先生のご指摘通り、様々な誤解を招きやすいように思います。言語を知ることで、文化的な要素に気づきやすくなる、気づく機会を設けることができるといったことを先に述べておく必要があるように思いました。
さらに日本文化=日本語=日本人という方程式は、現代にはそぐわないということもご紹介いただいた論文を読む中で再認識することができました。もちろん、日本は相変わらず単一民族国家と呼ぶべき国であるものの、必ずしも日本語を話す人が日本人であるという時代ではなくなってきたように思います。日本語ネイティブでありながら、国籍は日本ではないという人はこれからもっと増えていくことでしょう。こういった方々の視点でものを考えれば、言語は文化だという言い方は少々乱暴というか言葉足らずだと思いました。あくまで各々の文化的歴史的背景は尊重したうえでこのような話を展開しなければ、かつての日本人が行ったような「和人同化」にも近いような感覚を覚える方がいらっしゃるかもしれません。
また「文化」という表現には大変ポジティブな印象があるという風に個人的には感じています。なので、「言語教育を受け、日本語という日本文化の一部を学んだ」と聞いただけであれば、何か正しい知識を学んだことのように感じます。しかし、先述したように和人同化の政策の一部として望まない形で日本語を身に着けさせられた場合も同じく「言語教育を受け、日本語を学んだ」と言うことができます。文化として語ることで、このような政治性やイデオロギー性から目を背けるというか、こういった視点があることすら気づかないままになってしまう可能性すらあると感じました。
そして、日本語学習者として留学はその「国の文化」より「個の文化」というのはイタリア語学習者の私から見ても同じようなことが言えると感じます。「イタリア文化」という漠然とした大きなものを私の中に取り入れたというわけではなく、イタリアで出会ったイタリア人それぞれと触れ合うことで、自分の中に彼らの持つ考え方や習慣などを知識として、感覚として取り込んだような、そういったものでした。そこから自分の価値観や考え方に変化が起こったり、視野が広がったりしたように思います。これは、私個人の文化に影響があったといえるでしょう。
これらの経験は、イタリア語を知っていることで得られたものだと思います。イタリア語(または英語)を介して、相手が持つ個々の文化を吸収し、そして自分の個の文化をもっと多様なものにすることができた…
やはり、このような経験ができるというのは外国語を学ぶ最大のメリットというか人生にとって有意義なものであると思います。
私も先生のコメントやコメントに引用されていた論文に目を通すことで、言語を知っていることの意味を再確認することができたように思います。ありがとうございました。
22 2月 2021 at 22:26
青柳さん、
非常に刺激的な投稿をどうもありがとうございます。青柳さんの海外での経験について読ませて頂き、正直に共感するところも多くありました。
特に印象に残ったのは以下の文章です
「実際にイタリアでの留学を経験し、多少の実践的なイタリア語や英語を習得した今でこそ、外国語を用いて様々な知識を得ることができた。それはアカデミックな内容だけではなく、会話をすることで得られるその人個人の考え方、さらにはその国の人の考え方の傾向まで多種多様であり、多くの「気づき」に出会うことが可能だ。」
これに関してもう少しお伺いできればと思いますが、実際にイタリアで留学をしてイタリア語を学んで初めて、具体的にどのような「気づき」がありましたか?そして、それらは文化とどう繋がっていると思いますか?イタリア生まれ育ちの私が逆に気づいていないことがあるかもしれないので、その事例を読むのを楽しみにしております。
上記の引用文章はタイトルでも用いられている「言語は文化だ!」のメッセージに繋がっていると思いますが、外国語を用いて様々な知識についても是非知りたいと思いました。海外で留学をしてくる人は一体、どのような知識を得ると思いますか?
そして最後に、「文化」という用語は非常に幅広く、その中で古代文学や政治、哲学からロックンロールやポッポカルチャーに至るまで色々なものが含められていますが、青柳さんにとっては「イタリアの文化」の中で、何が特に印象的でしたか?
長い文章で大変恐縮ですが、青柳さんのとても貴重な経験についてもっと知りたいなと思いましたので色々なことを聞いてしまいました。
23 2月 2021 at 16:32
Giorgiaさん、ご質問いただきありがとうございます。
まず一つ目の質問について。個人的な見解ですが、イタリア人の言葉の表現はとても “ポジティブ” だと思います。自由会話の授業内でもお話しさせていただいた例がありますので紹介します。
イタリア人の友人と私の会話↓
友人:”L’anno prossimo penso di venire in Giappone!”
私:”Che bello! Per le vacanze?”
友人:”Sì!!!!”
私:”Ti aspetto qui!!”
というのがあったとします。
普通に訳せばイタリア人の友人は「来年日本に行こうと思ってる!」と言っているわけなんですが、これを聞くと大概の日本人は「ほぼ確実にこの友人は日本に来るんだな」と思います。ですが、私の周りにいるイタリア人はだいたいこの後なんだかんだで
友人: “Alla fine quest’anno non vengo in Giappone purtroppo…”
という展開になります。
ここで日本人はとても驚くわけです。「えっ!!くるっていったじゃん…」となるのです。
では仮に、この “Penso di andare in Giappone” というのを「日本に行こうと思う」という直訳ではなく「もしいければ、日本に行きたいと思ってる」という意訳に変えたらどうでしょうか。イタリア人と日本人の間に生まれるがっかり感が薄れると思いませんか?Pensareという動詞は、日本語でいうまさに「~と思う」なんですが、実現する可能性のレベルがやや違う気がするのです。あくまで私の感じる「傾向」ではありますが、その国の人が多く持つ認識やとらえ方を文化とするのならば、これは「言語を通して感じた文化の違い」というものになると思います。イタリア人の「~と思う」には期待感がこもっており、それを本人も信じて疑わない雰囲気で話をします。逆に日本人の「~と思う」には、どこか自信なさげな雰囲気すら感じるのです。両者の典型的な国民性が、ここで見て取れたような気がしました。
次に2つ目の質問「外国語を用いることで得た知識、および留学で得られる知識」について。
私が思うに、その国の現状を知ることができるというのは大きな点だと思います。情報社会になり、インターネット上で検索すればたくさんのことを知ることができる現代社会ですが、やはり現地で見て聞いたことにはかなわないように思います。
例えば、「近年著しい発展を遂げている中国がヨーロッパにどれだけ影響を与えているのか?」という議題があったとします。日本に住んでいる身であれば、報道機関が伝える情報や文献を探して読む情報を得るくらいしかできません。それに、多くの日本人が中国人がどれだけイタリアに住んでるのかは知らないのが現状です。しかし、留学しているとき、Milanoにチャイナタウンともいうべき場所があることを知ったり、Bubble Teaがそのおかげか日本よりも先にイタリアで流行っていたりと、なんとなくイタリアには中国人が多く住んでいるらしいことに気づきました。そして、留学が終わってからもイタリアに何回か行きましたが、行くたびに中国人が経営する店が増えているような気がしていました。さらにはBarの店員にも中華系であろう店員がすごく増えているのを感じていました。イタリア人よりもイタリア国内で仕事を見つける可能性が高いのでは?と思うほどです。私はこうしたことから、イタリアは近年かなりの数の中国人を受け入れているのだな、と気づいたような気がします。
報道機関を通じた情報だけでは、自分の身近に感じられないこともこうして自分の目を通してみたり聞いたりすることで、なんとなく現状に気づくことができるのではないかと思います。「単発で旅行に行くだけではわからないことも、長い期間その国に住むことで気づくことが増える」というのが留学の強みではないでしょうか。
また、現地の言葉を使うことができれば例えばその街の歴史、パーソナルなことではありますが宗教的価値観などについても学ぶことがより簡単になるように思います。
現地の言葉を用いることができるようになれば、知識を得る機会が増えるように思います。こうして自分の世界を広げていくことができると考えています。
そして最後の質問「イタリアの文化で何が印象的だったのか」について。
わたしは「人が人らしく活き活きとしているところ」だと思います。最初の質問の回答の中では少々「イタリア人はなんて適当なんだ…」と日本人が思ってる…などと風にとらえられてしまったかもしれませんが、それは裏を返せば「周りを気にしすぎない」ということにもつながっていると思います。日本人はどうしても “いきあたりばったり” に生きることができない人が多いと思います。さすがに、人生にかかわるような岐路においては私もそんなに適当に物事は考えられません。しかし、私はイタリア人との交流を通して「なんだか日本人ってなんかせかせかしてるのかな…?」と気づいた気がします。それは日常の些細なことをとってもそう感じるのです。
例えばイタリア人はよく散歩をしますよね?日本人も、もちろん散歩をしますが、なんとなく時間を決めたり、目的地を決めたり、ちょっとした運動という日常のルーティーンにしたりと何かしら無意識に「自分自身への制約」を設けてしまいます。一方でイタリア人は “Facciamo una passegiata!” といって、とりあえずあてもなく散歩をします。この「とりあえず(あてはないけど)散歩する」というのは、なかなか日本人には理解しがたいものです。おそらく「じゃあとりあえず散歩する?」とイタリア人に言われたら「え、どこに?」とか「え?で、その後どうするの?」と、聞いてしまうのではないでしょうか。何かの枠の中で行動をすることは得意なのが日本人ですが、自由に、気ままに…ということを、いつの間にかこの日本社会で生きていく間に忘れてしまっているのかもしれません。こうやって、いつも何かに無意識にとらわれている日本人はイタリア人に比べるとなんだか少し…生きていて疲れてしまいそうな気がしないでしょうか。
なんとなくあてもなく歩いて、ちょうど疲れたころに良さげなBarがあって、そこでcaffèを飲んで、友人と語らって、なんとなく帰る時間が来たから家に帰る…。
こういう生活は、日本人であればあえて一度「今日はあてもなく過ごすぞ!」と意識しないと難しいのかもしれません。でも、これができるイタリア人はどこかいつも楽しそうで「今を生きている!」という感じがします。こんな文化が根付いているイタリアという国は、日本人からすると少しうらやましいような気もするのです。ルールの中で動くことが上手な日本人、ルールなんて関係ない!というイタリア人。それぞれいいところも悪いところもありますが、「私が良いと思うことは良いんだ!」というのを “周りの人の意見を気にせず” しっかり自分の目で見極めていく姿勢もイタリアの文化から学んだ気がします。
以上、いただいた質問に対してお返事をさせていただきます。
大変長くなってしまった上に個人的な見解ばかりで申し訳ありませんが、少しでも参考になれば幸いです。
9 3月 2021 at 7:07
私も言語は1つの文化であると思っていました。しかし、最近それは少し違っていたのかな、、?と感じたことがありました。
グループでテーマについて話していた時に、似ているけれど正確には違う言葉にたくさん出会いました。イタリアの学生と私で、より正確に翻訳するとしたらどの言葉?!と悩み、話し合った時に「そもそもの文化が違うから言葉を使っている人の気持ちや考えが正確に伝わらないんだ」と思いました。
言葉は一つの意味だけではなく、それに基づく使用者の経験や人の考えなども含まれるため、言葉が文化なのではなく、言葉が文化を説明している、と思うようになりました。
つまり言葉はただのツールであり、その言葉に思いや意味を込めている私たち、という考えです。
本当に難しいことなので、それについて考えて書いたわかばさんをとても尊敬します。
面白いブログをありがとうございます!
9 3月 2021 at 14:36
コメントありがとうございます!そうですね、言葉は文化を説明できるツールなんだと思います。そこに気づくことができるのは、こうして海外の方と交流を持とうという気持ちがある方の特権だと思います。これからもたくさんの驚きや発見をしながら異文化理解ができたらいいですよね!