「芸術は爆発だ!!」という、かの有名な日本人芸術家岡本太郎の言葉をもじったようなタイトルで恐縮だが、本当にそう思うのでこのまま筆を進めよう。

まず、筆者の所属するグループでは言語教育の中でも特に外国語教育について取り上げて議論をしているというのを明確にしておく。そのうえでこの先の文章を読み進めていただきたい。

さて、大学に入る前のことだが、筆者をはじめ私たちのグループメンバーおよび自由会話の授業参加者には「実用的かつ面白い」と感じる外国語の授業を受けてこなかったという人が多くいた。コミュニケーションツールとして外国語を学習したという認識にすら及んでいなかったとも言えるだろう。ただ与えられた課題をこなすような感覚であり、自分の意見や気持ちを表現するというものではなかった。グループにはイタリア人と日本人がいるものの、そのどちらもが最初の外国語として触れる英語の授業の中ではあまり「リアルな会話」を意識した学習法は行われていなかったというのである。

-ではなぜ我々は外国語を勉強するのか?

それは話す言葉が違う人々とコミュニケーションをとるためではないだろうか、と筆者は考える。

もちろん学校で学習するような長文読解や文法の学習、語彙力の強化などを経てコミュニケーションという段階に到達するので、決して学校での学習が無駄であると言っているのではない。何かしらの文献を外国語で読むことも、筆者の意見を読み手が受け取ると考えればコミュニケーションの一部である。

だが、このような従来の学習方法ではこの「コミュニケーションツール」という段階にまでたどり着けないまま外国語に興味を抱けず、さらには母国語さえできていればさほど生活には困らないということもあって外国語が身につかないまま終わってしまう人も多い。

ここで、グループ内でも取り上げられた日本での英語教育を例に挙げる。近年、学習指導要領が改定され、以前のような一方通行の授業内容が見直されることとなった。それは「自分のことを外国語で表現する」というのを重視するというものだ。小学校から高校にかけて、段階的にコミュニケーションツールとしての英語を強化することを目的にしている。

グループ内で参考にした文献中で

コミュニカティブ・アプローチは言語形式だけではなく、言語の意味や機能にも注目し、伝達過程を重視した上で実際のコミュニケーションの場面で言語が使用できるようになることを目標とする。

という一文あったが、この改定された英語の授業方法はこのコミュニカティブ・アプローチに該当するといえるだろう。

もし仮に筆者がこの新しい方式の英語の授業を受けていたら、私の英語に対する意識はどう変わっていただろうか。

想像するに、より早く外国語を用いて外国の人とコミュニケーションをとることの楽しさ、そして興味深さに気づけていたのではないかと思う。

ただひたすらにテストの点数を取るためだけの学習法では「言語学習」という、その言葉通りの領域を飛び越えることはできなかった。その先の、外国語を用いることによって知り得る数多くのことに出会うのは難しかったのではないか。

実際にイタリアでの留学を経験し、多少の実践的なイタリア語や英語を習得した今でこそ、外国語を用いて様々な知識を得ることができた。それはアカデミックな内容だけではなく、会話をすることで得られるその人個人の考え方、さらにはその国の人の考え方の傾向まで多種多様であり、多くの「気づき」に出会うことが可能だ。

例えば、学校で習ったことを用いて訳した直訳文だけでは、なんとなくピンとこない文章も会話を重ねる中でなんとなく自分の腑に落ちる意訳方法を手に入れることもできる。

または、同じことを指す言葉であっても文化的背景から全く違う表現をすることにだって気づけるかもしれない。

このように外国語を学習することで、自分が知っていた世界のさらにその先へ進むことができる。

さらには自分が進んだその先の世界で、新たに出会った人の世界をも広げることができるかもしれない。

言語は話されているその国の背景を表した文化そのものであり、そして異文化理解をも促す重要な存在である。

こうした意味合いもあることを意識しながら言語教育をとらえていきたいと考え、冒頭の「言語は文化だ!!」という言葉にその思いを集約したつもりだが、少々集約しすぎただろうか?

果たしてこの雑多な文章で、読者の方々に伝えきれたのか…と筆者は今ものすごく不安でいっぱいである。

とにもかくにも、もしこの長い文章を最後まで読んでいただけたのであれば大変ありがたい。