このテーマについて考え始めた時、色々な疑問やモヤモヤが浮かんできました。言語学中心の場で学んでいる我々にとって、「言語」というのは非常に身近で、馴染みのある概念のはずだと思っていました。しかし、同じような文脈でよく使われている「言語」と「言葉」はどのように違うのか、「言語教育」と言えば、外国語の教育だけを指しているのか、それとも母国語の教育も含まれているのか、などというふうに頭がぐるぐる回っていました。

また、「教育」を考えると「教えること」がパッと思いつくかもしれませんが、おそらく教育に携わっている専門家がそればかりではないと認識しているでしょう。専門家でなくても、何らかの学ぶ、教える経験さえあれば、「教育」はもっと複雑で、色んな種類の「」にぶつかってしまう可能性があると分かってきます。教える立場としてどうすれば良いのか、聞いている方に気合を入れながらしっかりと理解してもらえるように。自分の思考や意思、つまり自分の「内界」がちゃんと外に伝わるように、それにまた「他者」や外の世界もこちらの方に届くように。自己表現他者理解とは、コミュニケーションは言うまでもなく、効率的な教育を実現するための欠かせないエレメントでもあると言えます。目の前にいる人の興味や趣味、その勉強や活動に取りかかろうとしているきっかけや動機がわかってはじめて、その個人にもっとも合う教え方が予想できます。しかし、他者に向かう前にまず、「己を知る」ものです。

「教える立場」と言いましたが、教育の場ではっきりとした教える立場と学ぶ立場はなく、教える時にほかの何かを心得て、学ぶ側も大事な気づきを与えてくれます。特に、グループ活動での教育/学習の場合、教えると学ぶ、「あげる」と「もらう」のポジティブな循環が生まれます。教育にはやはり、「勉強」よりも「実践」があるのではないかと。経験や実践こそが教育の形の一つです。しかし、「経験」はたった一人でできるものではない。自分の「内界」にずっと閉じこもると、なかなか物足りない独学をしてしまい、初心に咲いていたやる気も動機も桜の花のようにすぐ散ってしまう危険性が伴います。

最近、二つの面白い言い方を覚えました。それは「転ばぬ先の杖」と「鬼に金棒」という表現で、前者は「念のための準備のこと」で、後者は「すでに強いものにより一層の強さを与える」という意味です。もし、喩えて言うと、言語教育は「転ばぬ先の杖」のようなツールだと、充実した「教育」を可能にするその場にいる仲間たちこそが「鬼に金棒」のような存在だと言えるのではないでしょうか。

ヴァレンティーナ・セルニコラ

(12言語教育グループ)