「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」

「それならなぜクラムボンはわらったの」

「知らない」

      ・・・

「クラムボンは死んでしまったよ………。」

「殺されたよ。」

「それならなぜ殺された。」

「わからない」[1]

今週、物語の不思議な世界に入り込みました。「物語」と言っても、「昔話」や「童話」、「神話」や「伝承」などの様々なジャンルが存在し、それぞれには違う特徴や語り方があります。勇敢なヒーローが悪から世界を助ける、複数の神々が人間界を無から作り出す話もあれば、人間が全くいなく、動物や体の一部分(イソップの「胃と足との争い」はその例)が唯一の登場人物である話もあります。この多種多様な世界には、私たちは子供の時初めて大人から導かれ、そこに出会う人物の冒険を通して、世のあり方や人間社会の基本的な知識を身につけます。草食獣であるロバが、体力も知能も低く、簡単に肉食獣の強いライオンに捕食されてしまいます。子供たちがその話を読んで、人間社会は弱者と強者に分かれていて、後者は前者を支配することが多いという事実を意識し始めます。しかし、非常に知能の高い狐が工夫して、ロバみたいにライオンの獲物にならないことから、元々力を握っていない者もなんとかして困難を乗り切れることもわかります。

このように、人間界を描写する動物の冒険の話を楽しみながら、子供たちは昔話に含まれている教訓(モラル)を通して、「世の中」についてだんだん学んでいきます。ですが、内容の面だけでなく、物語には珍しい語彙、言葉遊び、擬音語、ことわざなども数多く出てくるので、言語の学びにもなると言えます。日常会話ではあまり耳にしない詩的な表現、普通セットにならない少し奇妙な単語の組み合わせ、文法の規則に反しているように見える言葉の並び方、この全てが読者の想像力と発想力を育ててくれるはずです。想像力が豊かな子供よりも、子供の頃の気持ちを忘れがちな大人たちには、このような刺激がより一層必要なのかもしれません。なので、昔話のおかげで、年齢を問わず「刺激的な学び」ができるのです。そして、成長してから、大人としてその文章を読み直すと、昔とは違う印象や影響を受け、今までは浮上しなかった新しい反省点が上がってくる可能性があります。

今まで、モラルをはじめ、昔話の色々な学び点について述べてきましたが、たまに物語や小説の教訓が明確ではないこともあります。宮沢賢治の「やまなし」はおそらくその例になります。文章を読み始めるとすぐ引っかからせるのは「クラムボンはかぷかぷわらったよ」というところです。まず、「かぷかぷ」というオノマトペが普通笑い方を表すものではなく、「浮く」のような動詞としか使いません。「子供の頃初めて読んだ時、どうやってカプカプ笑えるの??」と疑問に思っていた日本人の小川さんが語ってくれます。

それより、「クラムボン」って、、、誰なのでしょうか? 魚とカニに関する話なので、魚類なのでしょうか?もうしくは、魚釣りに来た人間でしょうか? もしかすると、他の何かの象徴ですか? 最初は「わらった」と書いてありますが、しばらくすると「死んでしまった」、はっきりされていない原因で「殺された」ようです。話が進むにつれて、ストーリーの背景が明らかになるどころか、そのまま神秘的で謎いっぱいです。それでも、読者が各行ごとの独特な響きやリズムに流されます。やはり、透明な「意味」があるかどうかにかかわらず、言葉がもたらす反響力が同じように強いです。

ただ文章の流れを楽しみたい時は、「朗読」を聞き、その音に身を委ねることができます。一方、特に外国語の勉強にあたって自分の読解力や理解力を積極的に向上させたい場合、「多読」練習に打ち込み、出来るだけ辞書を使わないでたくさんの本を読みまくります。また、文章のエンディングを書き直したり、ある部分を自分なりに変更したりするというような練習もできます。こういうふうに、昔話を使って、様々な活動を心がけ、自分の言葉に対しての意識を徐々に高めていきます。その言葉にあるハッとさせる深みや知恵、逆にパッと簡単に理解できない意味不明な言葉遣い、何にしても、言葉の魅力に引き込まれてしまいます。そして、「学び」が起きます。どんな学びなのか、いつ、どのように起こるのか、人によって異なってきます。

やがて、なぜクラムボンが笑ったのか、なぜ殺されたのか、私たちはそれを探っていき、自分なりの意味づけをします。

ヴァレンティーナ・セルニコラ

(12言語教育グループ)


[1] 底本:宮沢賢治「新編風の又三郎」新潮文庫、新潮、1989(平成元)年2月25日発行。

出典:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)