みなさんこんにちは!先のポストで言ったように今回も言語教育とインクルーシビティについてもっと具体的に話していきたいと思います。

二週間前の投稿に書いたように、偏見やステレオタイプを強調しないように言語教育はできるだけ包括的であるべきだと思います。で、具体的にどんなことがインクルーシブなのでしょうか、インクルーシブではないのでしょうか。

JaLeaで働いてはじめて、あまり包括的ではない文にぶつかりました。それで、ふたつの代表的な例を挙げていきたいと思います。

一つ目は、「それぞれ」の項目に書いてあった「夫婦はそれぞれの役割がある」という文です。シーモネが上手く主張したように、この例文は明らかに性別による固定した役割分担にこだわります。そして、「カップル」より「夫婦」という語彙が使われていますので、LGBTQ+カップルが全然認められていません。

The example clearly sticks to a gender-role-based stereotypical image of the heterosexual couple, which thus deviates from any form of ideological empowerment. It also gives no visibility to an emerging new portrait of contemporary world society represented by LGBTQ+ couples. 

なぜこのような例文を避けた方がいいかというと、先ほども書いたように言語は力があって私たちの考え方や価値観に影響を与えるからです。「夫婦」という言葉はヘテロノーマティヴィティ社会規範からずれているカップルが認められていない語彙です。つまり、「カップルは夫と妻(男と女)にすぎない、それは当たり前でしょう」という考え方になってしまって、ダイバーシティを把握できなくなってしまう危険性があると思います。

他の例として「私は妻を引き止められない」という例文が挙げられます。この文章のセクシストな含意が明らかだと思います。というのは、妻は「良妻賢母」の役割だけを果たして、家具のように家にいるべきだという偏見が強調されているからです。この文の反映している考え方は絶対に受け入れられるわけにはいかないんです。

先ほど述べたように、言語教育は偏見なしみんな自由に成長できるような場を与えるべきです。しかし、教えられている言語は家父長制社会の偏見や不平等でいっぱいだったら、エンパワーメントが全然できない場になってしまうと思います。

この例を通して、みんなに言葉の大切さに気をつけてほしいです。言語はより良い社会を実現するための基礎だと思います。確かに言語だけで社会を変えるのに十分ではありませんが、「千里の道も一歩から」でしょう。だから、不平等や差別に基づく現実を改革するため、とりあえず自分の言語から始めてみたらどうでしょうか。

最後まで読んでくれてありがとうございました!