レチィツィア・プローキロ

あの日は晴朗だった。

早朝なのに部屋は南向きで、暖かい光に満ちていた。前日の夜遅く寝てしまったが、その暖かい光に早く起こされても、不愉快などだと思わなかった。むしろ、ほっぺをやさしく撫でられたような気がして、気分がよかった。ゆっくりと起きて、シャワーを浴びて、朝食まで時間がまだあったので、外の様子を見に行くことにした。
ベランダに出ると、心地よい風がそよそよと吹いていた。海の上でカモメは穏やかに青い空を飛び回っていて、おにごっこをしているようだった。見ているだけで楽しかった。
私はあのホテルに来たのは二日前だった。作家として最悪の状況になって、スランプに 陥ってしまったんだ。なかなか抜け出せなくて、気分転換でしばらくお気に入りの島に旅行することにした。ところが、気分転換と言っても、実はぼんやり過ごしただけ。海を泳いだり、陽光をあびたり、ホテルの人に甘えたり、夜中でルームサービスを頼んだりして、一文さえ書こうとしなかった。本当にみっともない。
まあ、確かに非生産的な日々だったけど、精神的にそのホテルの宿泊は即効薬だった。そして、その晴れたのどかなはずの日に、あることが起こった。


ベランダから海を眺めている間、ホテルの人は庭で朝食のビュッフェの準備をしていた。早く起きたお客がもういく人か来ていて、その中で一人の女の子がいた。白いワンピースを着て、長くて黒い髪をしていた。彼女を見かけた瞬 間に寒気がした。根拠が何もなかったけど、普通の子ではない感じがした。
私も庭に出て、何かを食べようと思った。
ビュッフェのところに来て、雑用係の治くんに歓迎された。治くんは大学生で、そのホテルでバイトしていた。明るくて誰にも優しい人だった。お客が失礼なことをされても、上司に叱られても、ぜんぜん落ち込まないで前よりもまじめに働いていた。勉学にもこんなに頑張っていたのだろうか。スランプから脱出できない私は、すこしあこがれだった。頑張り屋さんで、いい人で、
―—私もこんなふうになりたいな~あ――
と思いさせた。
「お客様、おはようございます。どうぞこちらへ」
と言いながら、治くんは太陽のように暖かい笑顔を向けてくれた。いやされる笑顔だった。日を始めるには最高だと思った。
それで、私は自分を取り戻して、ようやくビュッフェに向かった。食べ物を取ってから、涼しい日陰のテーブルを選んで、一人で食べ始めた。
ところが、一口しか食べていないときに、治くんが私の方へ向かっているのに気付いた。人前で食べるのが嫌なので、あわててご飯を飲み込んで水を飲んだ。私に何か用、あるいは言いたいことがあると思って、話しかけられるのを期待した。でも、それは違った。
私は気づいていなかったが、その近くにはベランダから見かけた、不思議な女の子がいた。治くんが話しかけたのは、彼女だった。
「お 嬢さん、一人ですか。ご両親は?」
確かに彼女は一人だった。誰とも話さず、独りぼっちで遊んでいた。遊ぶというより、見えない何かを目で追って、独り言しながら妙な動きをしていた。腕、手、指の動きは、羽をたたいている小鳥の様子に似ていた。不思議な踊りでもいえるかもしれない。

とにかく彼女はその時にしている何かに夢中で、治くんには返事してくれなかった。
—―しかとかよ。なんて失礼な小娘。いくらなんでも変わっているとしても、人の話を聞きなさい―—
と、私は考えた。あまり冷静な人ではないし、特に失礼な行動にイライラする。
でも、治くんは私と違って、全然怒らなかった。たぶん、その独りぼっちの子がかわいそうに思った、あるいは面白そうに思ったかもしれない。どちらにしても、諦めないでもう一回試してみた。
「何を見ているのでしょうか。お兄さんにも教えてくれませんか」
でも彼女は無口だった。ただ遠く、遠く眺めて、不思議な動きを繰り返した。
—―治くんのやさしさを無駄にするなよ、小娘―—
私はこう考えて彼女をにらんだ。視線を感じられたか、あるいは心の声が高すぎたか、とにかく彼女は私に視線を向けて目を合わせた。彼女の目は青かった。それでついに音を出した。
「チヨ」
治くんは驚いた。
「え、チヨ?お嬢さんのお名前ですか。いい名前ですね」
「チヨはチヨ。遠くから来たの」
「へえ、そうなんですか。どこから来たのでしょうか」
「向こう」
「え、向こう?」
「うん。空の向こう」
治くんはおかしな顔をした。彼女が何を言っているかさっぱりだっただろうね。でもやさしい人から、彼女を質問で攻めないように、わかったふりをした。

「へえ、そうですか。それはいいですね」
「今度お兄さんも一緒に遊びにきてくれるの?」
「それは光栄です。お嬢さんの望みなら必ず遊びに行きます」

彼女は不思議にほほ笑んだ。
これで二人の会話はおしまいだった。そのあと治くんは仕事に戻って、彼女は私が見ていない間に姿を消した。
私も朝食が終わったし、それに、彼女の言葉
「今度お兄さんも一緒に遊びにきてくれるの?」
とその微笑みに違和感を感じたので、海に行って一日中リラックスするつもりで、庭を去った。


その夜、もう一度二人の話しているところを見かけた。
いつものように、私はルームサービスを頼んでベランダでおやつを食べていた。満月の晴夜だった。星空の下でさわやかな風が吹いていた。星も海の水面の光もピカピカと 輝いていて、おとぎ話のような雰囲気で、妖怪が出てもおかしくない夜。

私は食べている間に、二人の声が聞こえた。また庭で話していた。
「お嬢さん、こんな夜中に何をしていますか。寝られませんか」
「寝ない。鳥との会話中」
よく見ると、彼女の伸ばしている指の上に小鳥が立っていた。その小鳥は動こうとせず、ただ静かに立っていた。
「お鳥ですか。珍しいですね、こんな夜中にお鳥が出てくるなんて。お嬢さんはずいぶんと好かれているようですね」
「・・・」
「お鳥が好きですか」
「・・・」

「僕も鳥が好きです。子供の時、 雀を飼っていました。小さくてかわいい雀で、『ユメ』と名付けました。毎日ユメの世話をして、声をかけたらユメが小さな鳴き声を上げて返事してくれました。本当に 賢い雀でしたね・・・」

治くんの声には寂しそうな響きがあった。彼の目には悲しい影がよぎたように見えた。おそらくその雀が恋しくて、彼にとっては懐かしい思い出なのだろう。

静かな夜に、海の声の他に物音が聞こえなかった。
突然、少女の指の上に立っていた鳥が飛び出して、遠く行った。そして、彼女は意外に沈黙を破った。
「ユメ、幸せだった」
私だったら、この謎だらけの、意味不明なことしか言わない小娘にはもう飽きたに違いない。
相手が話しずらいなら、おとなしく聞くより何か言い訳を作って、早く会話を終わらせる方が楽だろう。そして、朝に感じた違和感がまだそこにあって、彼女にはあまり近づかない方がいいと、直感的に判断した。心のどこか、治くんがますます心配になった。
治くんは彼女に視線を向けた。口を開けて何か言おうとしたが、驚きと感動で言葉を失ったようだった。ただ薄笑いをしながら海に視線を戻して、遠く眺め続けただけ。
彼女は朝のように、変な踊りをし始めた。そしてこう言った。
「全部夢だよ。全部は夢で、夢は全部だ。あたしも、君も、お鳥も。終わらない夢は、永遠に続く。ずっと、ずっと夢を見て、生きているふりをしている。あたしも、君も」
――また意味不明なことを――
彼女の言ったことは治くんの耳にはなんて恐ろしい理屈なのだろう。 幼い子供にこういうことを言われると、普通はびっくりして怖くなるだろう。でも治くんはいつの間にか魔法にかけられたように、静かに聞いていただけ。そして、不思議なことに、話せば話すほど彼女の様子には少しづつ変化が起こった。月光の下で、彼女の長い髪がどんどん短くなったり、背が伸びたり、ささやき声がもっと大人っぽくなって高く響いたりするようになってきた。治くんが気づいていないわけがないのに、何も言わなかった。
「一緒に向こうに遊びにきてくれるって、約束したね。夢見る時間だよ」
彼女がこう言ったところに、変身は完成してしまった。体はすっかり青い羽根に覆われて、顔にはいつの間にかくちばしが現れた。あの不思議な女の子は、言葉で言えないほど美しい大鳥に変身した。 幻のように、月光に青く輝いていた。

治くんは、目の前で何が起こったか理解できなくて、とまどった。幽鬼のような青い顔をしていた。
「いったい何ものなんだ」
「われは怪鳥である。死んだおぬしの 魂を迎えに来たんだ」
「僕の魂?僕はちゃんと生きているんですが。何か間違いのでは・・・」
「いいえ、おぬしは今、生きているふりをしているんだ。あわれな子よ、おぬしはすでに死んでいる。自覚していないかもしれない。でもその事実は変わらない。受け入れるしかない」
「そんなばかな・・・」
「われは噓をつかん。それでも信じてくれないのかい。よろしい。われの言葉では納得できないのなら、自分の目で確かめるといい。指先はどう見えるのかい」
治くんは両手を挙げて、じっくりと見た。月光の下に、指先が白くて半透明
はんとうめいだった。

「足はどうなっているのかい」
怪鳥はなんか楽しそうに尋ねた。
治くんは下を向いて、右足を上げようとしたが、もう消えてしまったんだ。顔は真っ白になってきた。
「なぜ・・・」

「死んでいるからだよ。死に方などを気にせず、この世を去るといい。これからは向こうに行くんだ」
怪鳥は羽を広げて、治くんを爪でつかんだ。それで優美に飛んで、満月の方に向かった。
私は私の目を信じられなかった。嘘だろう。治くんが死んだ?しかも私があの夜見ていたのは彼ではなくて、彼の魂だった?その腹立たしい小娘も、実は女の子ではなくて、本当は怪物のような鳥だった?ありえない。どうして治くんが死ななければならなかった?あんなにいい人なのに…。理解できないことばかりで、頭は疑問でいっぱいになった。
「死に方などを気にせず、この世を去るといい」
そうだ。そうなんだ。死に方など、理由など、善と悪など、死んだらそんなことはもうどうでもいい。死は平等だから。人は皆いずれ死ぬ。この事実を受け入れるしかない。正しい死とか、正しくない死とか、考えるだけでばからしい。悪人も死ねば、善人も死ぬ。それは当然だろう。
でも、怪鳥の言葉を思い出す前に気づかなかった。
恐ろしい事件を目撃してしまった。でも、それでも…。
夜明けまでずっと起きていた。考え事が山ほどあって、頭を止められなかった。あの夜の出来事を飲み込むのに時間が必要だった。しかし暁になったら、ぱっとひらめいた。確かに恐ろしい経験だったが、意味のある恐ろしさだった。恐ろしくなかったら、こんなに深く考えさせる力がなかったと思う。想像を超えた大切にすべき経験だった。
そう考えると、スイッチが入った。
こんな経験についてなら、やっと書ける。そんな気がした。
その朝、治くんが死んでいるというわさがホテル中に広がっていた。寝ている間に心筋梗塞で亡くなったそうだ。彼の寝室には、青い羽根が散っていたらしい。