皆さんは日本の文学作品読んだことがありますか?

文学作品を読むことは、語彙の習得にも繋がりますし、ある国のある時代の文化を理解する助けになります。一方で、日常会話とはかなり違う日本語に戸惑うことがあるかもしれません。そんな日本文学について、今回は日本文学について、文語と口語という切り口で少し調べてみました。

文語体の話に入る前に、まず、日本の近代文学というのは、内容の面でも、文体の面でも、西欧文学・思想の影響を強く受けています。明治初めには西欧文学の翻訳が盛んに行われ、数々の西欧文学・思想が日本に広まりました。こうした書物や、あるいは実際の留学によって西欧近代に親しんだ人々が、西欧の近代文学を参考にしつつ多くの試みを行います。

イタリアでは詩の連続による物語が多く見られるそうです。かの有名なダンテの『神曲』もその一例ですが、これはかなり読みやすいイタリア語で書かれているといいます。文学作品の文体を日常語に近づける試みは、近代ヨーロッパ文学に見られる大きな特徴で、『神曲』でも俗語での執筆が試みられました。しかし、興味深いことに、『神曲』の日本語訳は非常にかたい言葉で書かれたようです。日本人でも、日本語訳を読むより、イタリア語を少し勉強して原文を読んだ方が簡単だという人もいました。これは、話し言葉よりも難しい文語体で書かれていたせいでしょう。

ここで日本の言文一致(話し言葉と書き言葉の一致)の動きについて少し見てみましょう。

日本で言文一致が進んだのは 、明治時代になってからでした。明治時代までの文学作品では、基本的に、漢文・和漢混交文・雅文などの文語が用いられていました。多くの現代日本人にとっては、漢文といえばなぜか古典の授業で学ばされるもの、くらいの印象かもしれません。しかし、昔の知識人達は、多くの漢文作品に親しみ、自身も漢文を作ることができたといいます。また、雅文というのは平安時代の書き言葉を模したような文体のことを指します。明治時代になると、急速な西欧近代化運動の一要素として、言文一致運動が行われました。この時代、多くの作家が新しい文体を模索しました。「だ調」「です・ます調」なども、この運動の産物だそうです。

一方で、明治時代には、依然として雅文体の作品も多くあります。たとえば森鷗外の舞姫などは雅文体で書かれています。近代文学作品を読む時、やけに難しい日本語に出くわしたら、もしかするとそれは古典的な文語体の作品かもしれませんね。

今回は明治期の文語体や口語体の話をしましたが、標準語の使用が主流となった現在でも、丁寧体か普通体か、一文が長いか短いか、誰目線で地の文が書かれているのかなど、ストーリー以外の文章の特徴は作者によって様々で、とても興味深いと思います!

翻訳で読む時、あるいは日本語で文学作品を読み始めて短いうちは、ストーリーに直接関与しない文章の書き方の違いに気づくのは難しいかもしれません。しかし、多くの作品を読み、日本語の表現の微妙な違いに気づいていけるようになると、新たな楽しみ方ができるようになるのではないでしょうか。

みなさんは日本文学を読みますか?

日本文学を読む理由はなんですか?

好きな作品や作者は何ですか?誰ですか?

日本の文学作品を読んでいて驚いたことや気づいた特徴はありますか?

何でも構わないので、もし日本文学について思うことがあれば教えてください!